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棒高跳びアルマント・デュプランティス世界記録の推移は?wikiも!

スポーツ

空を舞うようにバーを越える、まさに人類の限界に挑む棒高跳び選手。その中でも、今最も輝きを放っているのが、”モンキー”ことアルマンド・デュプランティスです。彼の名前を聞けば、誰もがその驚異的な跳躍力を思い浮かべるでしょう。一体、この男はどれだけ高く跳べるのか?

彼の世界記録の推移は、まさに人類の進化を物語るかのようです。次々と新記録を樹立し、我々の想像を遥かに超える高みへと到達しています。この記事では、デュプランティスの世界記録の推移を徹底的に解説。さらに、彼の成功の裏側にある、意外な出身地や、気になる年収についても深掘りします。

彼の華麗な跳躍の裏には、どのような物語が隠されているのでしょうか?彼の世界記録の推移をたどりながら、その強さの秘密に迫ります。さあ、一緒に棒高跳び界のレジェンド、デュプランティスの全貌を解き明かしましょう!

棒高跳び男子の記録変遷

男子棒高跳びの世界記録は、1912年に国際陸上連盟が認めた「マーカス・ライト選手」が記録した「4.02m」が最初になります。そこから21年後の1963年4月に「ブライアン・ステンバーグ選手」が5mの壁を超えました。

そこから23年後の1986年にあの鳥人「セルゲイ・ブブカ選手」が初めて6mの壁を越え、1994年に6.14mを飛ぶまで14回も世界記録を塗り替えました。ただしこの間の世界記録更新は、ほぼ1cm刻みの更新です。6mを飛ぶ選手にとっては「この1cm」が大変な事なのでしょう。

2014年にフランスの「ルノー・ラビネリ」選手が、ブブカ選手の記録を2cm更新した「6.16m」を飛びました。そしてそれ以降が「デュプランティス選手」の記録更新のスタートになります。

デュプランティス選手の世界記録は2020年から!

デュプランティス選手が初めて世界記録を出したのが2020年2月にポーランドで行なわれた大会で、それまでの記録を1cm上回る「6.17m」を屋内で出しました。そして直近の2025年8月12日にブタペストで行われた「コンチネンタルツアー・ゴールド」では

「6.29m」をマークし、自身の世界記録を1センチ更新しました。

6.17mから6.29mまで、1cmずつ合計13回も世界記録を更新し続けている「デュプランティス選手」です。この間、約5年半ですので平均4.5ヶ月に1回、世界記録を更新していることになりますね。記録更新の期間を見てみると最短が1週間で、最長で2年1ヶ月ですので、やはり好不調の波は一流選手でもあるようです。

2025年の世界陸上ではどんな跳躍を見せてくれるのか、今から楽しみです。男子棒高跳びの予選は大会初日9月13日(土)のナイトセッションで行われます。夜の19時5分が競技開始時間ですので早めに帰宅をすればテレビ観戦も出来ますね。

男子棒高跳びの決勝は、予選の2日後9月15日(月・祝日)のナイトセッション20時5分競技開始ですので、21時前後には世界記録が見られかもわかりません。

デュプランティス選手wiki

デュプランティス選手は、1999年11月10日生まれの25歳です。アメリカ合衆国生まれでスウェーデンの選手です。15歳の時、2015年世界ユース陸上競技選手権大会の男子棒高跳で金メダルを獲得し頭角を表し、各年代別のの世界記録を数多く出しています。

パリオリンピックで通算8度目の世界記録を更新し、そこからさらに4度も世界記録を更新しているデュプランティス選手。2022年時点ですでに500万ドル、日本円にして7.5億円の資産を保有しているとも言われています。

大会の賞金や世界記録やオリンピックなどの報奨金、そしてスポンサー契約料などを合わせるとあくまで予測になりますが、あるサイトでは10億円と紹介されています。そこまでは稼げていないかもわかりませんが、5億円以上は確実に稼いでいるのではないでしょうか。

ブブカ選手のトリビアおまけ

棒高跳びのトリビアを最後に一つだけ紹介させて下さい。鳥人ブブカ選手がなぜ、1cmづつの世界記録更新のこだわったのか?それは、世界新記録を出すと、毎回ボーナスが与えられる契約をブブカ選手が交わしていたからです。

世界記録更新のたびに5万ドルともいわれる当時としては高額ボーナスを、ブブカ選手は手にすることができたからです。そのため、1センチずつしか記録を更新しないという選択だったようです。加えて大会主催者からもボーナスを受け取れるよう、ボーナス設定のある海外の大会でしか世界記録に挑戦しない徹底ぶりだったそうです。

そのようになったのには裏事情があったようで、14歳の時に両親が離婚し、母親との生活には余裕がなかったそうです。スポーツの才能を認められたブブカ選手は母親と離れ、ウクライナ国内にあるドネツクのクラブに移りました。

選手としての成功が人生を開く、そういう道をブブカ選手は選んだのです。選ばざるを得なかったというべきかもしれません。

その後1991年東京世界陸上の直前にソビエト連邦の崩壊につながるクーデターが発生すると、ブブカ選手は真っ先に西側のスポンサーと契約しました。それは選手生活を続けるため、そして先行きの見えない祖国ウクライナの未来に少しでも貢献したいという強い使命感があったからだと言われています。

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