ブギウギでスズ子に素っ気ない態度を取り続けている、俳優の生瀬勝久さんが演じている『タナケン』こと棚橋健二のモデルは、昭和の喜劇王と言われた『エノケン』こと榎本健一さんがモデルになっています。
実際に榎本健一さんと笠置シヅ子さんは、舞台で共演したことがあります。それだけではなく、笠置シズ子さんにとって榎本健一さんは演劇の師匠でした。
今の時代に<エノケン>を知っている方は、だいぶ少なくなってきていると思いますので、その<エノケン>さんについての情報をお伝えしていきます。ビートたけしさんや明石家さんまさんが活躍した<漫才ブーム>やドリフターズがお茶の間を賑わしたよりも、だいぶ以前に活躍されていたのが<エノケン>こと喜劇王の榎本健一さんです。
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昭和の喜劇王と呼ばれた<エノケン>こと榎本健一さんって誰?
エノケンこと榎本健一さんは、日本を代表する喜劇役者です。榎本健一さん、は明治37年(1904年)生まれです。もともとはオペラ歌劇団のコーラス部員で、このころは端役しかもらえませんでした。しかし、このころからユーモアのセンスはピカイチで、そのセンスは随所に発揮されていたそうです。
関東大震災後にオペーラ・ブームが終わると、エノケンさんは、サイレント映画俳優になり、その後演劇や舞台に出演する機会が増えていったそうです。昭和18年(1932年)エノケンさんが、28歳の時に、<エノケン一座を設立>し、戦後になると映画に出演したことで、全国的に知られた喜劇俳優になりました。
<エノケン>さんは有名人なので様々なところで紹介されていますが、その中で榎本健一さんと笠置シズ子さんの関わりを紹介していこうと思います。笠置シズ子さんは、スズ子が演じているように、戦前から<スイングの女王>として知られていましたが、ドラマにも描かれていたように、戦時中は地方巡業を中心に活躍されていました。戦後、東京での芸能活動を再会。その活躍の場は歌ではなく演劇でした。
笠置シズ子とエノケンの共演
笠置シズ子とエノケン(榎本健一)の出会いは昭和21年(1946年)です。戦争が終わってまだ半年しか経っていない時でした。出会ったいきさつはよくわかりませんが、榎本健一さんがプロデュースした舞台でエノケンさんと笠置シズ子さんが初共演されたようです。この模様はちょうど、現在のブギウギで放送されています。
笠置シズ子さんは、日本で最初の<見せる歌手>と言われています。舞台での<歌と演技>が楽しい歌手の先駆けでした。歌いながら踊り、身振り手振りで観客を楽しませる才能に長けていました。
そんな笠置シズ子さんに榎本健一さんは、注目していたようです。とはいえ笠置さんは歌手です。日舞や歌劇を練習したことはありますが、専門の役者ではありません。
そこで榎本健一さんは、舞台の稽古時に「君は歌手で役者ではないから芝居のツボがはずれている。しかしそれがまた面白い効果を出しているので、改める必要はない。僕はどんなにツボをはずしても、どこからでも受けやるから、どこからでもはずしたまま突っ込んでこい」と<エノケン>さんにアドバイスされたそうです。
笠置さんは、榎本健一さんのアドバイスどおり全力でぶつかり、榎本健一さんももシズ子のツッコミを絶妙なボケで受け止めたそうです。このシズ子と榎本健一さんの舞台は大人気になりました。この舞台で音楽を担当した服部良一さんは「かねがね僕は日本のボードビリアン(芸人)として男性では榎本健一、女性では笠置シズ子が一番だと思っている」と評価していたそうです。
このころはまだ「東京ブギウギ」もなく、笠置シズ子さんはブギの女王ではありませんでした。笠置シズ子さんは、「ブギの女王」と呼ばれる以前に「喜劇女優」になっていたのでした。その後、シズ子は出産のため一時休業していましたが、復帰後は<東京ブギウギ>などが大ヒットした事で、忙しい毎日を送っていたそうです。『ブギの女王』と呼ばれるようになった後も、笠置シズ子さんは、榎本健一との共演は続いたそうです。
榎本健一さんの寄稿によると。『他の女優は、気取ったところや作ったところがあるが、生でぶつかってくる笠置シズ子は、榎本健一にとっては、とても演じやすい役者』だったそうで、女優と共演するなら笠置シズ子が一番だと証言しています。要は、二人の相性がとても良かったという事ですね。
昭和25年(1950年)に榎本健一さんは舞台での怪我と不摂生がたたり、右足が脱疽症(壊死)になってしまいましたが、手術を拒み活動を続けられたそうです。
シズ子がエノケンの代役になる
昭和27年(1952年)に榎本健一さんは、巡業中の広島で脱疽症が再発して入院されました。その時シズ子は、榎本健一から代役として指名されました。このころ笠置シズ子さんは、歌手として多忙な生活を送っていましたが、代役の連絡をうけたシズ子は、快く代役を引き受けたそうです。
笠置シズ子さんと榎本健一さんは、公私共に深い付き合いがあったそうです。シズ子さんは、娘のヱイ子ちゃんをつれて、榎本健一さんの家に遊びに言ったり、榎本健一さんもシズ子の誕生会に招待されて行っていたりしたそうです。また、シズ子が九州で親しくなった戦災孤児を榎本健一さんが引き取って育てたという逸話も残っています。
榎本健一さんは、なんと身寄りのない子供を引きとって、学校に通わせるなどの活動をしされていたそうです。なんと素晴らしい事でしょう。世間では榎本健一さんを「エノケン」と呼びますが、笠置シズ子さんは「エノケン」と愛称で呼んだことはなく「榎本先生」と呼んでいたそうです。それだけ尊敬していたのでしょう。しかし、さすがの「エノケン」も「榎本先生」と呼ばれることには照れていたようです。
晩年のエノケンさんは?
榎本健一さんは晩年に持病の脱疽症が再発した事で右足を切断することになってしまいました。その後、長男が病死してしまい、妻とは離婚するなど不幸が続きました。それでも舞台に立ち続けましたが患った肝硬変が悪化してしまい、昭和45年(1970年)にお亡くなりになられました。
笠置シズ子の師匠は?
笠置シズ子には師匠が何人かいます。ひとりは音楽の師匠・服部良一さん(ブギウギでは、草彅剛さんが演じています)で、もう一人が演劇の師匠・榎本健一さんです。シズ子は1950年代終わりごろから歌手「笠置シズ子」としての活動をやめて女優「笠置シヅ子」に名前を変えて再出発しました。体力に限界を感じて若い頃のように踊れなくなったからだとの理由だそうです。
でもその決断の裏には役者としてもやっていけるという自信があったからのようです。女優としての笠置シヅ子は映画やドラマに出演され、テレビドラマのお母さん役や歌番組の審査員を勤めて人気になりました。
榎本健一さんと共演したのは戦後の短い間でしたが、それでも笠置シズ子さんは一時期「女エノケン」と言われるほど喜劇役者でも成功していました。榎本健一さんとの出会いがなければ役者としての笠置シヅズ子は成功しなかったかもしれません。
榎本健一さんは、歌手という1面しか持たなかった<笠置シズ子>さんの新たな才能を開花させた立役者という事になりますね。残りの2ヶ月のブギウギからは目が離せませんね。愛助との行方はどうなるのでしょうか?楽しみですね。
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